ウイスキーづくり40年 寺沢三郎さん・67歳

おれ、会社(ニッカ)を定年退職して七年たつけど、まだ現役のころに造った原酒が樽(たる)いっぱいに詰まっている。お客に出す時は「わが子を嫁に出す気持ち」っていうのかな。
  去年の二月、工場長から「原酒を売ってくれないか」と頼まれた。いいよ、ってOKしたんだ。自分の手掛けた酒を売るのは、張り合いあるってもんだ。去年のさっぽろ雪まつりに試験的に売り出したら、新聞に紹介されたおかげでずいぶん有名になってしまって。
  売っているのは、樽に詰めてから五年、十年、十五年の三種類の原酒、ほかの樽の酒や水を加えていないそのまんまのモルトウィスキーさ。アルコール度数は六〇度くらい。普通に売っているのは四十度だから、かなり強いよ。
   「お土産にいいよ」って言うと、観光客が何本か買ってくれる。本州の人が感激してまとめて買って行ったこともある。でも、電話注文や地方発送はできないんだ。なぜかって?樽によって味やアルコール度数が微妙に違うので、規格化できないからだめなんだ。
  原酒は、いくつかの製造過程を経て樽に眠らせるんだけど、樽の材料の木が南向きか、北向きだったかによっても味が違う。南と北では木の「目」の密度が違い、原酒が息をする空気の量に差が出るからなんだ。
…………………1998年10月28日 北海道新聞…………………

入社当時はぜいたく品

地元の余市で生まれ育ったんだ。おやじは、余市のハイヤー会社の元祖みたいな存在でね。ところがおれが小学校へ上がる二、三日前に事故で亡くなったんだが、車を修理していたらジャッキがはずれてね。
それから母親が苦労して…。タクシー会社は、社員の運転手が兵隊に取られた上、戦争でガソリンもなくなり、商売できなくなった。三年くらいは、車を売った金で生活していたけれど、そのうち収入がなくなって、みんな働きに出た。
兄弟は三人でおれは、まん中。尋常高等小学校を出た後、三年ほどほかの会社で働いて、十八歳でニッカに入った。昭和二十四年(一九四九年)のことだったね。
会社もウイスキーづくりを始めたけれど、熟成に時間がかかるから、ウイスキーができるまで、リンゴジュースでつないでいたんだ。秋になると工場いっぱいにリンゴが持ち込まれてた。
同級生は何十人もいて、物のない時代だから作業服も長ぐつもなかった。夏ははだしで工場を走り回っていたよ。家から飯ごうをぶら下げて工場に来るんだけれど、それが、「結構、かっこいい」と言われた時代でね。
余市は、戦時中、旧水産試験場の付近が空襲に遭ったくらいで、この工場は無傷だったんだ。アメリカさんが、ウイスキー工場があることを知っていて「いずれおれたちの口に入るウイスキーだから」と大切にしてくれたんだね。きっと。ちゃんと、ちゃんと先を読んでいたわけよ。
それにしても、当時のウイスキーは高価だった。
だから会社に入るまでウイスキーなんて知らなかった。十八の時、初めて会社で飲んで「これがウイスキーちゅうもんか」と思ったね。のどに火がついたような感じだった。
 …………………1998年10月29日 北海道新聞…………………

大麦の粉砕 難しいんだ

会社に入って、まず、最初に回されたのが、醸造部門。そのころは、できたウイスキーがびんに入れられると、手でキャップを閉めていた時代で、手作業が多かったね。
三年ほどは、原料の大麦を乾燥させたり、粉砕したりする単純な作業を続けた。
我慢の仕事さ。でも、我慢がなければ、今の自分はなかったと思うよ。
ウイスキーは、どうやって造るかって?原酒を買いに来るお客さんの中には「リンゴで造っているのかい」なんて、言う人もいてがっかりすることがあるんだ。案外知られていないね。
原料は、大粒で良質のゴールデンメロン種という大麦を使う。それを発芽させて、ピートと呼ばれる「草炭」で乾燥させるんだ。この時、ウイスキー独特の香ばしいにおいが付く。それを機械で粉砕する。良く先輩に「殻を壊さないように実を砕け」と言われたっけ。その調整が難しいんだ。
こうして粉砕した麦芽に温水を加えると、麦芽に含まれている酵素の働きで大麦のでんぷんが甘い糖液に変わる。この液に酵母を加えると糖が分解してアルコールになる。ちょうどビールのような「もろみ」が出来上がるんだ。アルコール度は七度くらいかな。
ここまでが醸造部門。これから先は、「ポットスチル」という蒸留釜(かま)に入れ、下から微粉炭で火をたき、アルコールの濃度を高めていく。
出てきた無色透明な原液を樽(たる)に詰めて、何年も寝かせると樽に使われている硬い「オーク材」が息をして、琥珀(こはく)色の液体に変わるんだ。
大麦の粉砕から貯蔵まで約一週間。それから何年かたってできる。自分の手掛けたウイスキーが売れ出すと、そりゃうれしいんもんだよ。
…………………1998年10月31日 北海道新聞…………………

天が回るくらい飲んだ

原料の大麦が余市川のはんらんで、びしょびしょになってしまったことがある。それが一番記憶に残っているね。昭和三十六年(一九六一年)と翌年の二年続いた。六十キロの大麦の袋を担いでトラックに乗せ、ある札幌の会社に頼んで乾燥させたんだ。
そして、昭和三十年代後半から四十年代に入ってウイスキーが飛ぶように売れた。昼夜三交代で醸造を続けたさ。ハイニッカ、ブラックニッカの時代で、毎日残業が続いた。
だけど、昭和四十七年のオイルショックで、一転して苦しくなった。工場に原料を積んできたトラックの、帰り分のガソリンを用意した時代だった。あのころが、一番大変だったなあ。
昭和五十年代に入ると、焼酎(しょうちゅう)ブームが来てね。酒税法の改正でウイスキーの値段が上がった後だったから、かなりこたえた。減産しなくてはならず、従業員の数も仕事もめっきり減ったね、
今から十五年ほど前の冬に、ちょっとした油断でけがをして一カ月入院したこともある。貯蔵樽(たる)の上をちょん、ちょん、と伝って歩いていたら、靴の底の雪で滑ってね。一歩間違えば取り返しのつかない事故になるところだった。
飲むのは、もちろん自社のウイスキーだけさ。ビールも酒もほとんどやらない。一度なんか親類の結婚式で他社のウイスキーが出たことがあったが、かえって周囲の人が気を使ってね。まあ、飲んで見たがおいしくない。自社のものなら、どこで出されても色と香りで何年くらい樽に寝かされたものか分かるよ。
若い時は、天が回るくらい飲んだね。目をつぶれば地獄ってやつさ。洗面器片手に飲んだこともあった。それを乗り越えなけりゃ、一人前と言えねえ。おれの顔の色つやがいいのも、ウイスキーのおかげよ。
…………………1998年11月1日 北海道新聞…………………

人生そのもの 幸せだった

おれが、ウイスキー作りを覚えた昭和三十年代は、ウイスキーの値段は、一本三千円くらいで、高級品だった。
手作りのびんに入って、化粧箱がついていた。月給が二、三万円のころだからね。製造に携わっているからといって、その酒は税務署から厳しく管理されていたから口にできるわけじゃない。まあ、余市の飲屋街で毎日いい気分になってたけどね。
定年近くになって楽しかったことは「マイウイスキー作り」のお手伝いかな。十年前から工場が、お客さんを都募って有料でウイスキー作りに参加してもらう企画を始めた。おれは、その最初の体験ツアーで、お客さんに説明する大役を任せられた。中尾彬、池波志乃の俳優夫妻もいたよ。
その中で偶然一緒にいた若い男女に「お似合いだね」と冷やかしたら、帰りの飛行機で意気投合して、それが縁で半年後に結婚しちゃってね。手紙をもらってびっくりした。
十年前に作ったウイスキーは、もう飲みごろだ。去年、十年前に作ったウイスキーを味わってもらったらみんな感謝したね。
おれの人生はウイスキー作りそのものさ。会社があったから息子二人も立派に育てることができた。孫も五人いる。でも、おふくろは、これから幸せにしようと思った矢先に亡くなった。世界一、苦労したおふくろだった。
今、振り返ると、会社のためだったが、自分のためだったが分からないが、本当に定年までウイスキーのおかげで、病気ひとつしない。若い人は、琥珀(こはく)色のうまさ、知らないんじゃないかな。
工場すぐそばの歓楽街。「寺さん」は、行きつけの店で、少しだけ薄めた水割りグラスを持って歌い始めた。「悲しい酒」に「赤いグラス」。年季の入った節回しだった。

 
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