うらら町字ウララ

生まれ故郷の浦河を訪ねる

うらら町字ウララ

佐藤愛子著「うらら町字ウララ」内の「オンバコのトク」を読んでいたら、次のような一節に「大黒座」と言う映画館名が出てきた。

徳太郎はカズコが「映画見たいな」といったので大黒座へカズコを連れて行った。大黒座の大西さんは機嫌のいい時は、無料で入れてくれる。徳太郎とカズコは土曜日のオールナイトを一番前の席で仰向いて見た。
「映画というもんは、何でもいいから、食べていなければうまくない」
徳太郎はそういって、煎餅とスルメを買って来た。二人はそれを食べながら半分裸の女が次々に出て来る映画を見た。
「とうさん、この映画、一番おもしろいね」
「そうだよ」
「とうさん、あの女の人、きれいだね」
「そうだよ」

オールナイトの映画なんて、何だか懐かしが、私はこの映画館名を知らない。一応、何か情報をと思い、「大黒座 浦河」でググると、実際に存在し今も営業している事が分かった。そこで妹に聞いてみたら、知っていると言う。それでは浦河高校出身で今は東京都江東区に住んでいる従姉妹に電話してみたら、知らないと言う。浦高生当時、彼女は本桐から汽車で通学していたから、映画を観る時間なんて、なかったのかも知れない。

この「トク」さんは「続 浦河百話 第八六話 トクさんがいた」にも出て来る。

昭和三十年~五十年代、浦河の町なかでよく見かける一人の男がいた。温和な丸顔で背は低く、押している自転車には交通安全の旗やら何やらいっぱい飾りを付けていた。通りがかりに声をかけるとどんな人にもニコニコと話に応じて来た。浦河でこの男を知らないものはない。名前は小林徳太郎といったが皆からはトクさん、またはオンバコのトクと呼ばれていた。

浦河町東栄の別荘に夏場だけやって来ると言う佐藤愛子は地元住人の交流の中で得た情報を小説の題材にしていたのである。この話は「続 浦河百話 第九十話 山の上のセンセエー佐藤愛子と東栄の人々」に詳しく書いてある。
そんな訳で東栄を通るとき「山の上のセンセエーの別荘」を探したが、あれよあれよと通り過ぎて行くので、それらしき影さえ見つけられなかった。

浦河の映画館 大黒座

そんな訳で西舎に行く途中、「大黒座」に寄ってみることにした。大黒座へは「浦河町総合文化会館」脇の信号からではなく、一つ手前の信号から入って探したので、「大黒座」の文字が見えず一度、通り過ぎたが、戻ってみるとコンパクトな映画館「大黒座」があった。


映画館の中に入り、大きな声で見学の許可を求めたら、「今、上映中なので大きな声を出さないで下さい。」と右側の事務所にいた女性に嗜まれた。そこで、耳を澄ませると、階段の上から、何やらボソボソ音が聞こえる。確かに上映中だ。
だが、ここで怯んではいけない。いつもの大きな声をグッと抑え会話を続けた。それによると、建物の老朽化や道路の拡張工事で、建物のサイズが小さくなり、今の座席数は48席とのことだ。

場内の切符売り場にいた館主のお母さんらしき人に撮影の許可を貰って撮った一枚がこれ。

この映画館の運営スタッフは大黒座のホームページを見ると、なるほどと納得できる。
大黒座は「続 浦河百話 第五十一話 銀映座ー栄町に三館目の映画館」にも登場する。

同じ日、大通二丁目の大黒座は、新築一周年記念の特別興行を打っていた。最終の三日目で、ハリウッド映画「クオ・ヴァディス」を上映。制作費三十六億円、三万人の登場人物、百十五のセットを使ったという古代史劇の超大作だ。通常木戸銭百三十円のところを百円に下げて特別サービスだと言う。

このとき、浦河にはこの大黒座に加えて、セントラル劇場と銀映座の3館もあったとは驚きである。そして、昭和29年開業の銀映座が姿を消したのは昭和38年、セントラル劇場は昭和53年だという。
●この大黒座のドキュメンタリー映画「小さな町の小さな映画館」の予告編このサイトで見ることができる


浦河の山本写真館

浦河町西舎に住んでいた時、家族写真を浦河の写真館で撮った。写真が入った紙袋には「山本寫眞館」と旧漢字で印字されていた。これが印象に残り、その名前だけはずっと覚えていた。
ネットで調べると今も国道沿いに存在している。そこで、ただそれだけで訪ねて見ることにした。


ここで対応してくれたのはご同輩らしきご主人。あの家族写真は先代が撮ってくれたもの。以前の写真館の場所を尋ねると、親切にも外に出て、「あそこ」と教えてくれた。24歳のとき、この地に戻って来たというご主人の話によると、この辺一帯はシャッター街になりつつあり、経営は一様に厳しいとのこと。「もう少し頑張ってみます」言う話を最後に別れた。
住所:〒057-0013 北海道浦河郡浦河町大通4丁目40番地の1
電話番号:0146-22-2274 FAX番号:0146-22-2284
営業時間:午前9時 〜 午後6時 休店日:日曜日,祝日


西舎

西舎は幼年期の5年間を過ごした所であるが、そもそも西舎の成り立ちは明治14年(1881年)キリスト教集団赤心社が広島、兵庫からの移民50余名が5月19日浦河港に到着。それから西舎に入り開拓に着手したのが始まりのようだ。

昭和28年当時の西舎小学校

国土地理院の「地図・空中写真閲覧サービス」で昭和28年当時の西舎を写した航空写真を探したら、こんなのがあった。どうもこれは学校のようである。ぼんやりとした記憶からすると赤矢印の辺りに住んでいたらしい。
家ではヤギとニワトリを飼っていた。そのヤギに跨って遊んでいたら、振り落とされた。直ぐ近くの道路で木炭バスが走っていた。そして、昭和27年3月4日、十勝沖地震が起きた。そのとき西舎小中学校の校長であった父親が廊下の窓を開けて歩いていた。浦河市街はあちこちで地割れが起き、浦河高校が倒壊した。


今の旧西舎小学校跡

障がい者支援施設 浦河わらしべ園の真向かいにこの建物が建っていた。ここが幼年期に過ごした場所に間違いない。つまり、ここに旧西舎小学校が建っていたと思う。この建物の佇まいからすると、いつしかの校舎を一部改築して使っていたのかも知れない。


この「日本乗馬療育インストラクター養成学校」でホースセラピーに関わる資格が取れたのでしょうが、ここは2006年に閉鎖されている。だから、もう10年もこのままの状態。いま、使われていない建物は何となく気持ち悪いものだ。

西舎神社

西舎神社沿革の一部を紹介すると、明治40年(1910年)国営の日高種馬牧場が浦河町西舎の地に開設された後、種馬牧場の用地内に牛馬守護の神として福島県相馬郡中村の相馬中村神社の祭神妙見神 天御中主神を勧請し、西舎妙見神社として建立された。


相馬中村神社と言えば嘗て相馬に住んでいた頃、何度も行った所であるし、野馬追いも見ている。西舎神社と相馬中村神社は馬と言う共通点があったのだ。この事を道立図書館の西舎開村記念誌「拓地百年」で読んだ時、西舎神社にも行って見ようと思った。だが、残念なことに、今はもう神社の機能を果たしてなく、ただ建物として存在しているように見えた。


うらかわ優駿ビレッジAERU

昼食のために「うらかわ優駿ビレッジAERU」に行った。途中、花の咲いていない桜並木を通り、建物の裏側に回ると駐車場とAERUウェルムセンターがあった。


私がかつてマツダ クロノスで天馬街道を通ったとき、北海道で一番長いトンネルであった野塚トンネル(全長4,232m)はどの辺にあたるのだろうか、と思いながら遠くの日高山脈を眺めやった。



すずめのおやど

京都近郊の貸し別荘すすめのおやど