シャクシャインの戦い

シャクシャインの戦い

「シャクシャインの戦い」とは酋長「シャクシャイン」が中心となって、松前藩に起こしたアイヌの蜂起事件と言う位の知識しかないので、色々な碑文を通して、学習して見ようと思う。

英傑シャクシャイン像

38年前と今の写真

ここに立つのは2度目。最初は1978年のお盆の頃、会社の同僚K君とその友達2人で、東京からマツダ サバンナを走らせ、ここに立ち寄った。このあと、襟裳岬に行っていることは当時の写真から窺えるが、北海道をどのようなコースで走ったかは覚えていない。

(1978年8月 Minolta SRT Super)
シャクシャイン像の隣にそびえるのはアイヌ独特の模様が彫られた「ユカルの塔」であるが、神器カムイパスイを形取ったと言われているそうな。2枚の写真を見比べた時、一番の違いは回りの木が大きく育ったことだ。
(2016年8月12日 NIKON S9700)
もし、5月ならばシャクシャイン像の周囲で花見ができるはずだ。何故なら、そのむかし、昭和30年頃、真歌公園で家族や御薗中学校の先生方と一緒に花見をした記憶が残っているからである。

英傑シャクシャイン像碑文

この碑文の製作から40数年も経つと、文字はかなり読みづらくなっている。判読できない所は文脈から想像して書いたので、間違いがあったらご容赦を。

英傑シャクシャイン碑文
日本書紀によれば、斉明の代(西暦六五〇年代) において、すでに北海道は先住民族が安住し、自らアイヌモシリ(人間世界)と呼ぶ楽天地であり、 とりわけ日高地方は文化神アエオイナカムイ降臨の地と伝承されるユーカラ(叙事詩)の郷であった。
今から約三〇〇年前、シャクシャインは、ここシビチャリのチャシ(城砦)を中心としてコタンの秩序と平和を守るオッテナ(酋長)であった。
当時、自然の宝庫であった此の地の海産物及び毛皮資源を求めて来道した和人に心より協力、 交易物資獲得の支柱となって和人に多大の利益をもたらしたのであるが、 松前藩政の非道な圧迫と苛酷な搾取は日増につのり同族の生活は重大脅威にさらされた。茲にシャクシャインは人間平等の理想を貫ぬかんとして民俗自衛のため止むなく蜂起したが衆寡敵せず戦いに敗れる結果となった。しかし其の志は尊く永く英傑シャクシャインとあがめられるゆえんであり此の戦を世に寛文九年エゾの乱と言う。
いま静かに想起するとき数世紀以前より無人の荒野エゾ地の大自然にいどみ人類永住の郷土をひらき今日の北海道開基の礎となった同胞の犠牲に瞑目し鎮魂の碑として、ここに英傑シャクシャインの像を建て日本民族の成り立ちを思考するよすがとすると共に父祖先人の開拓精神を自らの血脈の中に呼び起こして、 わが郷土の悠久の平和と彌栄を祈念する。
  一九七〇年九月一五日
シャクシャイン顕彰会
会長 神谷与一

●池澤夏樹著「静かな大地」文庫版p141~p142より引用

なんとなれば、戦というのは勝つものだからよ。負けてはならぬものなのよ。
 アイヌは和人相手の戦にいつも負けていた。コシャマインも負けたし、シャクシャインも負けた。クナシリ・メナシの戦いも負けた。和人はずるいからだまし討で勝ったと言うが、しかし戦というのは決して負けてはならぬものだ。
 こういうことをすべて教えてくれたのはリコテだが、その兄がしみじみに言ったものだ。戦は負けては駄目だと。だましてでも勝たなければ駄目だとな。
 負けた以上、相手のすることが没義道だと言ってもはじまらない。負けた者は負けた者だ。
 和人は戦がうまい。いずれは外に出ていって列強のように他人の国を切り取るだろう。だからさ、アイヌ相手の戦はその練習だったのだ。和人は蝦夷の地を切り取って自分のものにした。

●同著p212より引用

「和人はアイヌをこき使った。男は遠くにやって女は自分のものにした。働かなければ釜に入れて煮殺すと脅した。たまりかねてアイヌが戦いを仕掛けると、和平を持ちかけて、手打ちの宴を開くと言ってアイヌの頭領を呼びよせ、だまし討にして殺した。和人はずっとそういうことをしてきた。違うか」

●同著p329~p330より一部を引用

 ここ静内はみなも知るごとく、かつてシャクシャインが拠点としたところだ。松前の支配に抗して立ち上がり、和人の兵を攻めて追い詰め、もう少しというところでだまし討ちにあって倒れた英雄の地だ。
 もうずっと以前から、シャクシャインの名は和人の前では口にしてはいけないものであった。
 三郎さん、あなたはシャクシャインの話を聞いたことがあったか。
 三郎は首を横に振った。

●同著p484~p486より一部を引用

 蝦夷の歴史に名高いシャクシャインの蜂起は、はじまりはアイヌ同士の内紛であった。
 ただし、その前には和人が野放図に蝦夷地の山に入って砂金を採ったり、鷹狩のための鷹を獲ったりして、山を乱したことを忘れてはならない。とりわけ砂金採りは川床を荒らし、鮭などが卵を産む妨げになる。砂金採りが入った川は数年後に貧漁に見舞われる。
 やがてアイヌは次第に貧しくなり、お互いに猟場などを争うところまで追い詰められた。

国指定史跡「シベチャリ川流域チャシ跡群」

今は展望台となっている「シベチャリのチャシ跡」へ行くにはこの名前の無い橋を渡る。

国指定史跡案内「シベチャリ川流域チャシ跡群」シベチャリチャシ跡。

シベチャリチャシ跡
(平成9年12月2日指定)
 チャシは、アイヌの砦、あるいは儀式の場所といわれ、アイヌ文化を研究するうえで重要な遺跡です。海や川などに面した眺めの良い丘や崖上に、1~数本の溝を掘って築かれています。
シベチャリチャシは、「シャクシャインのチャシ」とも呼ばれ、寛文9(1669)年の「シャクシャインの戦い」の拠点として知られています。
平成10年7月
新ひだか町

シベチャリチャシからの眺め

今は展望台となっているシベチャリチャシ跡から、静内市街を眺めて見よう。

太平洋側を臨むとこんな風だ。なるほど、ここからだと、海岸線の様子がよく分かる。

一方、シベチャリ川(静内川)の上流方面だとこんな風になる。なお、ここに置いてあるパネルから静内市街の建物の位置を確認できる。

シャクシャイン城趾

この展望台の中にシャクシャイン城趾の碑がある。

シャクシャイン城趾
この城趾は、エゾ地支配を強化せんとする松前藩に従わなかったシビチャリ川附近から十勝にかけてのアイヌ民族と松前藩と、これに味方する沙流アイヌとの連合軍と爭いをおこした。世にこれを寛文九年エゾの乱という。
このシビチャリ城趾はそのときのアイヌの勇將シャクシャインの居城である。この乱は和人に對するアイヌの最後の抵抗であって、以後エゾ地は全く和人の支配地となった。
昭和三十四年八月
静内町長 貝田信二


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