北の零年史跡めぐり

はじめに

今年の墓参りはいつもと違うスタイルだ。普通の墓参りに「北の零年 史跡めぐり」と生まれ故郷である浦河町探訪が加わったため、静内のホテルで一泊となった。メンバーは昨年と同じく、私と妹夫婦の3人。
むかし父親が残した古い戸籍謄本を見ると、その筆頭者は私の曾祖父に当たる「前田茂三郎」となっている。先祖は淡路島からの移住者と父から聞いていた。
「もしやネット上に」と思い「前田茂三郎」でググると「静内移住者名簿」と言うページがトップに出てきた。上から順に探して行くと、「旧臣曽我部、浅川両家から得た記録に寄る旧家臣の名簿(169名)」の中にその名があった。ここで俄然、稲田家の静内移住に興味が湧いてきた。映画で言うと2005年公開の「北の零年」がそれに当たる。
ちょうど都合よく新ひだか町観光協会に「北の零年 史跡めぐり」があったので、これを参考に稲田家の移住史跡を私も巡ってみた。
※2017年8月13日東静内漁場跡・静内会所跡・戸長役場跡・お登勢の碑・新ひだか町博物館と図書館追加。撮影は2017年8月5日(土)~6日(日)

「北の零年 史跡めぐり」春立・東静内編

開拓者集団上陸地記念碑へのアクセス

この記念碑は新ひだか町春立の元静内にある事までは観光協会の案内マップで分かる。実際にそうなのかを確かめるべくGoogleのEarthで見たが、どうもその位置に見当たらない。
そこで、一計を案じた。墓参りの日、ある事で春立の人とホテルで会う予定があるので、直接聞いて見る事にした。その当日、彼に元静内のGoogle航空写真を見せると、しばし考えて、「これだっ!」と指差した。
さらに「入り口に、北の零年史跡めぐりの案内板があり、入ると直ぐの所にある」と教えてくれた。やはり、「案内マップ」とは少し違っていた。また、この「元静内川」を挟んで、通学先が東静内小学校と春立小学校に分かれていると言うことも、話していた。
この図はNIKON S9700で撮影したポイントを示している。ポイントが重なり合っている所が記念碑がある位置である。つまり記念碑は「元静内川」の手前にあるのである。



元静内橋の手前で左方向に行き、少し走ると記念碑は右側にあった。駐車は右側の空いた所に置かせて貰った。

開拓者集団上陸地記念碑

ここが稲田家臣たちの上陸地点だ。曾祖父の前田茂三郎もこの地点に立ったのだろうか。以前、ここは何度か通り過ぎたが、先祖史とか静内史には興味が無かったので、全然気が付かなかった。


故郷めぐりのとき恒例になった妹とのツーショット。(CanoScan LiDE 600Fでスキャン)

開拓者集団上陸地記念碑
静内郡の開拓を命ぜられた元徳島藩洲本城代家老稲田九郎兵衛邦植の家臣たちは汽船三艘で淡路洲本を出港し明治四年(一八七一年)五月二日この地に上陸した。

この記念碑の左側に"映画「北の零年」の舞台 しずない 開拓への第一歩をしるした地"と題したパネルが建っているのだが、もう色褪せてしまって、とても見難い。

映画「北の零年」の舞台 しずない 開拓への第一歩をしるした地
開拓者集団上陸地
 明治政府から静内・新冠両軍の支配を命じられた、阿波徳島藩の洲本城代家老稲田九郎兵衛邦植の旧家臣546人は、明治4年4月(1871)中ころ、大阪丸・大有丸・鍋焼丸の汽船3隻に分乗し洲本港を出港し、5月2日、静内沖に到着し今の元静内、まさにこの地に上陸した。当時の静内を海上から眺めると5月とはいえ、まだ冬の様子で緑の草や木の葉も見えず、寒ささえ感じられるほどであったといわれ、住む家さえもない不安さに、女の人や子どもたちは、砂浜につっ伏して泣き叫んだと伝えられている。石碑の全体は船の形を表し、船首の部分にあたるところには、直径15cmほどの丸い穴がくりぬかれているがこの穴から遠くはるかな淡路を眺めて、先人たちのはかりしれない苦労を偲び、その不屈のフロンティア精神を学びたい。
 映画「北の零年」では、志乃や多恵を含む稲田家の人々が半月もの船旅を経てやっと辿り着いた人々が、不安と希望をない交ぜに深い原野を見詰める印象的なシーンとして描かれている。

すべての夢はゼロから始まる
 明治という激動の時代にはたくさんの英雄たちが現れ、世に語り継がれてきた。しかし、あの時代を生きた侍のほとんどは新しい時代に馴染めず途方に暮れ、武士の魂を捨てきれずに生きていたのではないかと思う。
 この映画の主人公たちは豊かな淡路島から一転して荒涼とした北海道の大地に投げ出された。絶望を感じながらも、それを受難として受け入れて前に進むしかない運命を背負った名も無き侍。その侍たちの開拓をする様は、僕たちの撮影状況に似ていたかも知れない。北海道での撮影は天候が思うようにならず、畑や牧場まですべてを作らなくてはならなかった。つまり、理想を追い求めるよりも、それで起こることを受けとめながら進めざるを得なかった。しかし、撮影で起こった一つ一つが劇中の状況や心情とシンクロして面白い活劇になっていったと思う。
 僕はこの作品で、侍の誇りを捨てきれなくてしがみついた男の哀しみと、夢や希望を信じることだけで道を切り開いていった女の強さを描きたいと思った。先の見えない闇の中で見えない敵と戦っている侍たちと、それを支える妻たちの切ない姿は現代の日本人にも重なって見えるだろう。その哀しみの果てには、刀を捨て鍬を手にした勇敢な侍たちの姿があった。この映画が今の日本人の心に刺さってくれたら幸いである。  監 督 行 定 勲
平性17年4月 北の零年を応援する町民の会

益習館跡へのアクセス

先の「案内マップ」での目印は東静内郵便局・東静内消防署・藤沢商店・岩掘商店。車の中から商店の名前を読み取るのは難しい。そんな中「岩掘商店」は分かったので減速し、左に車を寄せたら、そこは東静内会館の駐車場。この駐車場の左側を見ると益習館跡の碑があった。
もし、この記事を参考にして、行く人がいるなら、この画像の信号先に見える「東静内工房」を目印にした方がいい。


益習館跡

益習館は私の父親が関係している。それは益習館が高静小学校の前身であるからだ。父親は札幌師範学校を卒業後、昭和2年~15年の13年間を高静小学校の訓導(今の教諭)として教壇に立っていた。

益習館跡
 明治四年(一八七一)、静内に移住した旧稲田家臣は、この地にあった増上寺末寺の頓成寺を仮校舎として子弟の教育を開始した。
 校名は益習館。郷里淡路にあった稲田家の学問所の名をそのまま用いたのである。
 校長には荒木重雄、教師には洲本の益習館助教であった三吉笑吾をはじめ数名の者があたった。
 明治五年、目名に目名教育所と改称した。
 これが高静小学校の前身であり、北海道の学校教育の先駆けでもある。
平成二年三月建立 静内町

●池澤夏樹著「静かな大地」朝日文庫p17より引用

 その先で角を曲がると正面が益習館だった。兄が通い、私もいずれ通うはずだった学校だ。しかし建物は焼けて何も残っていなかった。煙の匂いがした。その時にはじめて、兄はこの事態に本当に腹を立てた。力を込めて私の手を握り、ひどいことをする人たちだと小さな声で言った。
 益習館を焼かれて子供たちは宙に浮いてしまった。何日か後、騒がが収まって、仮の場所で勉強が再開されてもどことなく所在なげだった。
 あの日の無念の思いがあったから、洲本の人々は静内に行って住む家を建てるとすぐに学校を造った。益習館を再建した。それが何年かして、場所を代え、お前も通ったあの学校の元になった。

●池澤夏樹著「静かな大地」朝日文庫p80より引用

 夏の盛りで、静内でも珍しく暑い日だった。兄が言い出して、私たちは川に泳ぎにゆくことにした。あの夏は私たちにとって遊び放題のよい夏だった。静内にはまだ学校がなかった。寄宿制の益習館ができるのは秋になってからだ。
 時折、母上が少しは勉学をと言われたが、私たちを机の前に座らせることはできなかった。だいいち、そうしようにも机がなかった。紙も硯も筆もなく、教本もお手本もなかった。

●船山馨著「お登勢」講談社文庫p154より引用

 志津が立ち上がって廊下を玄関へ渡ってゆく間に、お登勢も庭を小走って迎えに出た。津田頼母は今朝から益習館と呼ばれている宇山の稲田家の別邸へ行っていたのである。

●船山馨著「お登勢」講談社文庫p251より引用

 立木は三田の少年時代から、ともに 益習館で励んできた仲間である。政府の使者という公式の立場を離れれば、気がねのいらない朋輩であった。おたがいに言葉を飾る必要はなかった。

●船山馨著「お登勢」講談社文庫p390~p391より引用

 「その証拠に、近く頓生寺に教育所をひらく。校名も洲本の益習館をそのまま使う」
 「この土地に益習館ができるのか……」
…中略…
 稲田侍にとって、精神の故郷と言っていい。だから、庚午事変のときも、徳島の兵隊はそこを焼いたのであった。
 その洲本益習館が、北海の果ての静内に再生するということに、稲田家と無縁になったはずの貢なのに、ふと心が慄えた。
 :頓寺は原文のまま。碑文のように頓寺が正しいと思われる。

●船山馨著「お登勢」講談社文庫p399より引用

 岩根静一が話していた旧藩黌益習館が、捫別の頓生寺に開校されたのは、師走もかなり押詰まってからであった。
…中略…
 教授科目は論語、孟子、国文、庭訓往来、手習い、算盤などのほかに、ごく初歩の英語まで揃っていた。

●船山馨著「続お登勢」角川文庫p196より引用

 稲田家の私校益習館は、最近になって目名教育所と改まっていた。
 明治五年に文部省から学制が発布されていたが、開拓地の北海道では到底学制通りの実施をする余力がなく、文部省でもそれを認めていた。それでも旧武士が圧倒的に多い開拓地では、苦しい生活ながら師弟の教育には関心が強く、益習館が目名教育所と改まったのも、その現れであった。初級、二級、三級と三学年制で、初級では佐氏第一読本、字音書、会話、習字、数学を教えた。

開基百二十年之碑

益習館跡の直ぐ側にあるのが、開基百二十年之碑である。開基とは基礎を築くことだ。こう言った「開基の碑」はここ札幌にもたくさんある。南区真駒内だと真駒内開基百年記念碑と言うのが、真駒内第1公園内にあるので、今度、行ってみるかな。

開基百二十年之碑
 東静内には、古くから先住の人々が多数居住し、永い歴史を大自然の恵みを受けながら、困難な生活を営んできた。
 そこへ、淡路洲本城代家老、稲田九郎兵衛邦植氏とその家臣は、政府より静内郡の移住と開拓を命ぜられ、明治4年2月47名の先発隊、同年5月には500余名の本隊が捫別(現在東静内)に集結し、開拓の鍬を振るい、幾多の苦難を克服して、今日の静内町の基礎を築いたのである。
 今ここに、開基120周年の記念すべき年を迎え、幾多先人の足跡を偲び、功績をたたえて記念碑を建立する。
   平成2年4月
東静内連合自治会

東静内漁場跡

東静内漁場跡は東静内郵便局とセイコーマート東静内店の間にあるが、東静内郵便局寄り。浦河国道沿いに「北の零年」史跡めぐりの看板があるので、分かり易い。



東静内漁場跡
往時この地には場所請負人の漁場がありこの一帯に倉庫や番屋などが立ち並んでいた
明治四年(一八七一)静内に移住した旧稲田家臣の人々はこれらの建物を仮の宿としていたが同年七月火災のため衣類夜具その他道具を分蔵していた倉庫を焼失した

は剥げていて解読出来ないが、「北海道移住回顧録」(静内町郷土史研究会発行)のp43に「衣類布団其他道具類は」とある事から、不明の文字は「」と思われる。(2017/8/15)

静内会所跡

静内会所跡は東静内郵便局の向かいにある。

静内会所跡
享和二年(一八〇二)幕府は、蝦夷地を直轄支配し、運上屋を会所と改め行政機能を持たせ、付属施設も拡充させた。
かつて春立(元静内)にあった静内会所は安政五年(一八五八)東静内に移転され明治期まで姿をとどめた。
  平成二年三月建立 静内町

「北の零年 史跡めぐり」静内編

稲田家屋敷跡へのアクセス

ここもGoogle Map上で特定するのは難しかった。静内市街からのキーワードは「目名橋→セイコーマート→映画・北の零年史跡めぐり案内板」だ。これを思いながら、助手席でその案内板を探したが、「岡田牧場」と言う大きな看板が決め手になった。


目名橋そしてセイコマートを過ぎたら減速して「岡田牧場」の大きな縦看板で左折すれば間違いなく行ける。

稲田家屋敷跡

「岡田牧場」の看板より入って行くと直ぐにこの風景が目に入った。こんなに近いとは思わなかった。画面左下が「稲田家屋敷跡」である。



稲田家屋敷跡
明治四年(一八七一)開拓のため静内に移住した元徳島藩州本城代家老稲田邦植はこの地に屋敷を 建てた
邦植の弟稲田邦衛が長く居住し大正十五年(一九二六)まで姿をとどめた

稲田氏の墓と平運丸遭難の碑

稲田家屋敷跡地を見た後、そのまま道なりに進むと、「北の零年 史跡めぐり」の案内標識があったので、中に入って行くと御殿山公園に出た。この先の墓地に駐車場があるようだが、道端に停車した。


ここで直ぐ目についたのが稲田氏の墓と平運丸遭難の碑であった。平運丸遭難とは明治4年8月紀州(和歌山県)周参見浦(すさみうら)沖で第二陣の移住者が乗った平運丸が難破し83名が死亡すると言う惨劇が起こったのだ。


メナチャシ跡

メナチャシ跡に稲田家主従の移住と開拓の顛末を描いたレリーフや北邊開拓の記念碑が建っており、橋の左端には「稲田橋」、右端には「北海道稲田会」と書いてあった。

国指定史跡「シベチャリ川流域チャシ跡群」
 メナチャシ跡 (平成9年12月2日指定)
 チャシは、アイヌの砦、あるいは儀式の場所といわれ、アイヌ文化を研究するうえで重要な遺跡です。海や川などに面した眺めの良い丘や崖上に、1~数本の溝を掘って築かれてます。
 メナチャシは、17世紀、静内川上流に勢力を誇ったハエ(現門別町)のオニビシ方のチャシといわれています。オニビシは、静内川を舞台に、下流に勢力を誇るシャクシャインと争い、ここで、シャクシャイン方に討ち取られたと伝えられています。
平成10年7月
新ひだか町

北邊開拓の礎

新ひだか町観光協会の「歴史で辿る新ひだか町」にこの説明として、「静内を開拓した先人たちの偉業を後世に伝えようと建立された」と書いてあるが、このレリーフに描かれている画像の意味は「北邊開拓の礎」の説明文を読んで、ようやく分かった。


この碑は反射が強くて上手に撮れなかったが、書いてあるのは移住の由来と上の画像の説明。レリーフの見方は「1 稲田騒動 2 先発隊出帆 3 本隊上陸・稲田主従一行元静内に上陸 4 火災・携帯して来た家財道具消失 5 平運丸遭難・二百余人中百十余名犠牲となる 6、開拓・上段の悲劇と決別・まず道路づくり」となっていた。

稲基神社

ここに稲田家の祖先が祀られている。現在の神社は昭和61年(1986)に建替えられたものだとか。稲田家のシンボルであったアカマツも神社周辺に植えられているとのことだが、注意して見なかった。

●船山馨著「お登勢」講談社文庫p251より引用

 「先月、おぬしら洲本の稲基神社に集まって、血盟して分藩実現を誓ったそうだな。おぬしほどの男が、まさか本気で非常手段も辞さぬなどと思っているのではないだろうが、自重しろよ。そんなことになったら、士族も卒族もありはせん。稲田家は廃絶、おぬしらは打首ものだ。ちっとは政府の立場もかんがえるもんだぞ」

●船山馨著「お登勢」講談社文庫p456より引用

 静内は邦衛来道の知らせに沸き立った。
 三月の初めには荒木と浅川が戻ってきた。邦衛を迎える準備を整えるためであったが、彼らは更に、邦衛も四月には渡道するという待望の快報をもたらしたのである。家士たちのなかには、感極まって涕涙する者もあった。誰が言い出したのでもないのに、人びとは目名の御殿山の稲基神社に集まって、感謝の祈りを捧げた。神社とは名ばかりの祠ではあったが、洲本にある稲田家の祖先を祀った同名の神社を、移住と同時に遷したのである。真っ先に建てられたまま、住む人のなかった稲田屋敷も札幌から職人が招かれて修理がはじめられた。益習館も捫別の頓生寺から目名に移されて、目名教習所と改められた。

●お登勢がテレビドラマ化されたことを機に記念碑が建てられたが、今は誰も掃除していないと見えて、随分汚い。「静内名所」の看板に恥じぬよう定期的に点検して貰いたいものだ。
下の写真は持参してきた「お登勢」と「続お登勢」の文庫本カバーを記念碑の前に置いて、妹といつものポーズでツーショット。


お登勢の碑
春の訪れとともに、お登勢はふたたび木を伐り、根株を掘り起こし、草を焼き土を耕す毎日の中に埋没して行った。
静内から新冠にかけては桜が多いが、いつ花が咲いて、いつ散ったかも、お登勢は気づかずに過した。
 船 山 馨

なお、「お登勢の碑」の場所はGoogleマップで「お登勢の碑」で検索すると、地図上に表示されるように新規登録した。


戸長役場跡

「戸長役場跡」は北洋銀行静内支店の建物で、浦河国道側の壁にプレートとして、貼られているだけである。

戸長役場跡
明治13年2月静内新冠両郡の事務処理をした町村役場の前身である戸長役場が設置された跡である。
 静 内 町

新ひだか町図書館・博物館

ホテルの部屋で「新ひだか町図書館・博物館」のパンフレットを良く読むと、休館日の中に「祝日の翌日」と言うのがあった。正に8月12日はその日に当たる。念のため、翌日、行ってみたが「休館」の看板が立てられており、次回に持ち越しとなった。
ここで期待するのは資料検索システム(OPAC)。これで、新ひだか町図書館・三石分館の資料をパソコンで検索できる。果たして、知りたい事がどれだけ出て来るか、楽しみである。

こう書いてから約1年後の2017/8/5(土)に再訪問。博物館内部の撮影は個人使用だけに限り、ネット公開はダメと言う事なので、ここには出せないが、貴重な資料がたくさん展示されていた。ここでは、「稲田家臣団の北海道移住」だけ、文字情報として紹介することにする。

稲田家臣団の北海道移住
静内郡移住開拓を命じられた稲田家は、家臣に現地調査をさせます。結果、将来有望な土地であると認められたため、移住を決意しました。まず、47人の壮士を選んで先発とし、これを2組に分け、1組は大阪から大津を経て敦賀から船で函館へ渡り陸路静内へ到着、1組は東海道を経て青森に至り尻労から船で静内に直航して後続移住者の入地準備にあたりました。3艘の船に米麦・農具・家具などを満載して順次、洲本を出航し、総勢137戸546人が移住を終えたのは、明治4(1871)年5月2日のことです。
開墾は、草や茅を刈り払って道路をつくることから始まりました。人力で原始林を切り開く作業は困難を極め、とくに元武士などは、単衣に袴をはいて鍬を振るうという姿であったため、股の間の痛みに気がつくと、無数のブヨが群がって血を吸い、血が噴き出す有り様でした。
明治4(1871)年7月30日、家財道具を保管していた漁場倉庫が失火により全焼、8月23日、後続の移住者200余名を乗せた平運丸が周参見浦で岩礁に乗り上げ難破と、移住者たちを落胆させる出来事が相次いで起きました。さらに、諸藩以下の管轄支配は一斉に罷免され、北海道全体を開拓使が支配経営することとなり、稲田家臣団の移住計画は中絶したのです。

このあとの図書館では曾祖父一家が妻と子供2人を連れて、静内に移住して来た名簿を発見できたのは収穫であった。ここには、曾祖父は年43、曾祖母は年41、祖父(二男)は年4、三男がいなくて長男は年20と書いてあった。さて、長男の平兵衛はその後どうなった、と言う疑問がわいて来た。 また、この時の住まいは静内郡遠仏村第17番屋敷との事だが、今の田原のどの辺なの?


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更新情報・お知らせ

2017/08/13
「東静内漁場跡・静内会所跡・戸長役場跡・お登勢の碑」を追加NEW
2016/09/09
「静かな大地」で「益習館」と「シャクシャイン」の記述がある箇所を同書より引用
2016/08/23
ホームページ公開(2016/8/11~12、アネックスイン静内に一泊